昭和42年08月14日  朝の御理解



 御理解に、この方の道は、話を聞いて助かる道だ、この方の道は祈念祈祷で助かるのではない、話を聞いて助かるのだ。祈念祈祷、例えば、まじないといったようなこともございますですね、色々な信心がございます。拝んでもらうというだけで、おかげを頂くような気持ちがするというような、それをおかげと思うておるような信心もある。自分が拝むんじゃない、拝んでもらう、ね。
 それからまたは、人を御祈祷してもらう。それで助かると思うておる人もある。はなはだしいのは、まじないをしてもろうて、それで助かると(雄心?)しておる人もある。人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理にあう信心をせよと仰る。教祖の神様が教えておられますように、この方の道は祈念祈祷で助かるのではない、話を聞いて助かるというのは、どこまでもその話というのが、普通の話ではない。
 いわゆる道理に基づいたお話なのである。天地観にやはり一つの事訳がある、いわいる道理がある。ね、天地の道理(人道?)の道理ともいう。それを天地の法則という人もある。その天地の道理をその天地の法則を、あらゆる角度から分かりやすくどんなに学者であればある程、それは無学の者であっても分かるように分かりやすく、解いて聴かせて下さってあるのが御理解であり御神訓であり御神誡である。
 いわゆる教典の中に現れておる御教え。その教典に基づいてお話しを頂かせてもらうのが、いうならここでのお話であり御理解なのである。話しとはそういう内容を持った話しなのである。ただ世間話では、ない、それはちょっとききには同じような話しに聞こえるような場合もある。修養的なお話と同じよなこともある。信心は修養だというように誤解しておる人すらある。決して信心は修養とは違う。
 もちろん修養(?)ね、教えを治める教えを修していくのですから。そのどこまでも教えというものが、自分のものになるというか性格の上に生かされていくというか、自分のいわゆる生きると生きてゆくということ上に、社会生活の上にそれが血になり肉になり、応用されていかなければならんのである。話しを聞いて助かるというのは話しを聞いただけで助かるという話しを、聞いておるうちに成るほどと合点がいく。はぁこれは自分の行き方自分の在りかたというのは、天地の道理に基づいていなかった。
 何十年間例えばここに50歳の人があるならば50年間という間を、天地の御恩徳も知らず天地の道理も知らず、御恩徳にたいし神恩報謝の生活もせず道理に合うた生き方もせん。これでは人間が本当に幸せになるはずはなかったと分からせてもらうところから、話しを聞く気がいわゆる本気になって話しを聞こうという意欲が出てくるのである。だからどこまでも話しというのは、いわゆる神様のお心であり天地の心である。
 いわゆる心を心としての生活を私共がさせて頂いて、初めておかげ頂く。いうならば話しを聞いて助かるということだけならですね、例えばお道の話しの事が書いてある本を読んどればもっと詳しくですもっと理論的にです分かるだけなら。ね、分かるだけならば、それだけでも結構分かるんだから、本を読んで助かる道ということにもなるんだけども、ところがそれでは助からんから不思議。
 例えば宗教学というものを治められる宗教学者なんかという方達は、それはそれは大変な勉強をしておられますから、あらゆる宗教のことが色々分かられるから、大変その人は徳を受けて幸せに暮らしておられるかというと決してそうではない。無学に近い人でも、いや無学に近いというよりも、本当に無学の人であっても、私共はどっちかちいゃ無学に近いほうなんだけれども、無学に近い者であっても、ね、
 信心が分からせてもらうということは、お話を聞いてそのお話しが自分の生き方の上に現されていく、自分の血に肉になっていくというような生き方でおかげを頂いてまいりますと、その人は幸せなおかげを頂いておる、日々、安心と喜びの生活がでけておる、その安心と喜びに、願わんでも頼まんでも、人間幸せに必要なものの一切のものが、その人に恵まれていくというようなおかげを頂いておる人もある。ね、
 だから学がなからなければならんということでもない、ね、一言でもいい、あぁそうだと合点がいくところを本気でそれを自分のものにしようとする精進が必要である。ね、話しだけで助かる。成るほど祈念祈祷で助かるのでない。話しを聞いて自分の心が開けてくる、自分の心が豊になってくる。だからおかげになるのである。そこで次の御教えにもある、話しを聞くばかりがのうではない、わが心からも練りだせと仰るような御教えがあるのでございます。ね、
 そのわが心からも練りだしていかなければならん。ただ話しを聞いて助かる道であるならばです、そりゃーもう本当にそりゃーもう聞いとってですね、もう( ? )するような御道の先生の中にもです、お話の名人の方がおられます、ね、もう2時間3時間ぐらいはもー思わず聞いてしまう。しかも、泣かせたり笑わせたりしてそのお話を( ? )聞かせなさる。しかもそれは他の話じゃない、信心話しである。
 にも関わらずです、いうならその先生自身も助かってござらん。そこにおひき寄せ頂く信者も助かっておるとは思われない、信者がいるというわけでもないというったような教会も先生もたくさんあるということです。だからそのあながち話を聞いて助かるというだけではないことが分かります。話を聞いて心が助かる、話を聞いてその話が自分のものになって始めておかげを頂くのである。
 ただ頭で覚えてござるだけ、勉強してござるから色んな難しい言葉を使って、ただ天地の道理を天地の御恩徳をです、理路整然として説いて説いて解き明かして、それを聞いて聞いて聞きぬいてもならそれだけでは助からん。そこにやはり祈念がいる祈りがいる。朝の御祈念いわゆる朝の御祈念。「ぞ今日も一日、あなたのおかげの中に御神徳の中に御恵みの中に、生かされて生きていくところの喜びを分からせて下さい。」
 「今日も神恩報謝の一日でありますように。
 どうぞ、あなたの御心に添いたて奉る一日でありますように。只今から頂きますご理解は、どうぞここ何十人の者が頂くのじゃない、私一人で頂く」というような意欲。(?)私一人のためのお話であったというような頂き方。ね、そういう頂き方そういう姿勢がお道の信心には必要なんだ。一心不乱な祈念も必要一生懸命にお話を頂くということも必要。そしてそれを、「はぁそうか」と思う事を。
 の日一日の行の上に現していく、家業の上に現していく。ね、その家業の上に現した、それでよいというのじゃない。「はぁー今日はあーゆうふうにして現していったんだけれども、ああでよかったんだろうか」と、御教えを頂いておりながら、信心させて頂いている者が日夜、どうぞ、あなたの心に添えたて奉る一日でありますようにというて願い祈らせて頂いておる私が、こういう生き方でよかったろうかと。
 私は練っていかなければならない。いわゆるわが心からも練りだしていくところの信心。不思議なんだ。少し例えば、何事でも仕事を体得しようとして覚えてまいりますとですね、もうその仕事が仕事を教えてくれます。ね、ですから問題はその仕事を本気で頂こうとする意欲がなかったらだめなんだ。ただ聞いとりゃえぇ、参っとりゃえぇではいかんのである。本当にその信心を頂こうと、本気で分かろうと。ね、
 本気でそれを行じさせて頂こう、今日はこのことをというようにです、心にいわゆる強い意志と申しましょうか、強い心をもって、それを行じ抜いていくところにです、その信心を体験の上に現したり、体験によって分からせてもらったりと、はぁ今まで分からなかった、ね、理外の理というのがある。こうして理を解き明かし聞いてもらっておりますけれども、その理外の理、お話の他にです。
 まぁ大変大事なものがあるんだけども、それは言葉には現されない、言葉ほど不自由なものはない、とさえ言われておるけど、どんなに理を、微に入り細にわたって解き明かしても、それでは、解き明かしえないことがある。以心伝心というようなこともある。何とはなしに通ていく、何とはなしに、お話を頂いておるうちに、ほん然として分からせてもらうことがある。
 行じておるうちに、はぁ日頃から頂いておる御教えはここんとこだなぁと、体験を持って頂いていくことができる。そこにはやはり研究心いわゆる練りだす心、ね、そういう心が必要なんです。お話はよく分かっておる。毎日いうならば183ヶ条の御教えを基にして、私がこうやって様々な角度から皆さんに聞いてもらうのですから、やはりあの先生のお話はもう、いつも天地の道理じゃ、天地の御恩徳。
 いつも改まれじゃ磨けじゃと。確かにそれだけのことなんだけどもね、だからもうそれこそ耳にタコんできるごと聞いとる。詳しゅうなっておる。ところがです詳しゅうなっておる人が、私は行じていかないところに、おかげを頂けないことになってくると思うですね。皆さんでも体験なさることがあるでしょう。歯がゆいということ。歯がゆいと思いなさることがあるでしょう。
 取分け(小さい ? )、とういうかその勉強なら勉強、こう指導する勉強を教える。「ここは昨日教えたとこじゃんの、まあだあんた覚えとらの」、まぁ2編3編な繰り返し繰り返し教えよう。もうモヤモヤするばってん、じっと堪えちから教えよる。しまいには、「もう、お前んごたるとには教えん」ね、もう叩きたくなる。もう、あんたんごたる頭ん悪かつはおらん。
 もう何べん教えりゃ分かるとかと、歯がゆい思いをするでしょう。神様とても同じこと。もう繰り返し繰り返し、十何年間、こういうご理解を、頂き続けておるじゃないかと。その頂き続けておる、あんた達は、いつまでたって分かるつもりね、もうしらんばいと神様から、まぁ神様だから、そういうことは仰るまいけれども、神様ほど、私は気の長い方はないと思う。ね、
 気長に気長に教導して下さる、教えてくださる、そこんところを神様に歯がゆい思いをさせておることであろう、これではいかんというところから、私は渾然とした信心がでけてくるようになると思う。まぁ十年間も、改まらんなりにやっぱおかげ頂いてきた。しだごだでおかげを頂いてきたから、もそれでよいと一生を終わっていく人もある。それでは、神様に、いわば歯がゆい思いをさせ続けてからの。
 一生ということになるのでございますから、確かにかいてもらいよるね、ところが、まあちっと上、まあちっと下というように中々ほんなとこかいてくれん。だからかいてもらいながら、かいって歯がゆい思いをする。ああそこじゃなかとこう言おうごたる。ね、神様の思いに、こっちは添え奉ろうとしておることだけは間違いない。ところが肝心なところを抜かしていくか、そげんじゃなかたい。
 ( ? )というようなところにお気付けが私はあると思うです。だからお気付はお気付として悟るということは、神様に歯がゆい思いをさせておろうという、そこんところをですね、私は的確にかいていくことであり、頂いていくことだとこう思うのですよ。ね、そして、そういていく生き方のにです、はぁ有り難いもの、楽しいもの、喜ばしいものというものがです、ね、
 信心が身についていくところから有り難いものが生まれて来る、その有り難い信心がまた、次の有り難い信心を練りだしていくことが出来る。次の信心を、いわば、仕事が仕事を教えてくれるように、信心が信心を教えてくれるおかげにもなってくる。ね、どうぞひとつ、此の方の道は祈念祈祷で助かるのではないということは、どこまでも天地の道理に基づいた信心ぞということなんだ。
 御祈祷してもらった、拝んでもらった、自分の手ばこげんして参っておりゃよかというような信心ではない、そういう信心があるかもしれん、ね、決して金光様の信心は、それではない。どこまでも天地の道理に基づいた、あり方、生き方を教えて下さる。だからそういうあり方生き方にならなければ、おかげにはならん。ね、そこに「話を聞くばかりが能ではない、わが心からも練りだせ」と仰る事になってくるのでございます。
   どうぞ